日記・コラム・つぶやき

2013年4月16日 (火)

「大垣北高の星巌詩碑」 その2

Yosimura_4 以前、「大垣北高の星巌詩碑」について紹介をしました。その時、碑は2つあると書きましたが、もう一つの方が建立した人の思いがつまっていて味わいが深いのです。この碑を建てた人は吉村勝治という大垣北高の前身である旧制大垣中学第2代の校長先生です。明治27年に東京帝国大学を卒業し、福岡の中学で2年勤め、明治29年に大垣中学に奉職。明治32年には早くも校長となり、大正8年まで勤めて大垣中学の気風を作ったと言われる人です。
吉村校長の星巌詩碑は前のものに比べるとずっと質素ですが、星巌の和気清麻呂公を称える漢詩だけでなく、その詩ができたいわれと、ご自身の感慨が書かれています。星巌の詩に続く碑文と漢詩は次のとおりです。
「此の詩は先生(星巌)『国基』(我が国の国体を論じた本)の著者座田(さいだ)維貞(これさだ)の需(もとめ)に応じて賦する所なり 維貞勤皇の国学者にして常に和公の忠節を慕ふ 贈正一位及び護王大明神の号を奉請する首唱の功 没すべからざるなり」
そして「題詩碑を敬す 犀江 吉村勝治」とあって、7言絶句が書いてあります。
「和卿の剛直神言を奏し 梁子の精忠国論を麾(き)す 百丈の豊碑は千歳の訓(おしえ)にして 偉勲赫奕(かくえき)として乾坤を照らす」
これによれば「星巌は座田維貞に求められて漢詩を作った」こと、「維貞は勤皇の国学者で和気清麻呂公の忠義を敬慕しており、朝廷にその徳を伝えて祀るべきことを進言し、正一位の贈位と神号を時の孝明天皇から授かるという大きな働きをした」ことが分かります。
そして吉村校長自身も「星巌の詩碑を敬って」漢詩を捧げているのです。犀江は吉村校長の号です。
「和気公は強く正しい心で神勅を伝え 星巌先生は忠義の真心で国論を指導した 高く立派な碑は永遠の教えであって 大きな手柄は光り輝いて天地を照らすだろう」
星巌は大垣市出身の尊皇の漢詩人。座田維貞は大垣市の南隣海津市出身の国学者。同郷の2人は手紙のやりとりもあり、志を同じくして懇意であったようです。吉村校長も大垣に近い本巣市真桑の出身であることから、京で活躍した郷土美濃の先人たちが、和気清麻呂公という日本の恩人を称えたという事実を石碑に刻み、後世に伝えようとされたのでしょう。そしてこの碑はいつ建立されたかは書いてありませんが、恐らく大正8年に大垣中学を退職されていることからその前後に記念として建立し、後に入ってくる若者達にその歴史を知って、後に続いて欲しいと願われたのではないでしょうか。
石碑は1㍍余の小さな砂岩でできており、100年近い年月の間に文字もかすれ読みにくくなっていますが、皆さんの心に留めて欲しいと思い、紹介をしました。(H)
※このことは京都産業大学の若井勲夫教授の講演で知りました。記して先生に感謝します。

2013年4月14日 (日)

「所郁太郎供養祭」に参列しました。

行事が一つ終わるとほっとしてしまい、ついついブログを書きそびれてしまいした。このようにとぎれることもありますが、マイペースで情報発信をしていきます。今回は「所郁太郎供養祭」に初めて参加をしましたので、その紹介をします。供養祭は4月12日(金)午前10時より、大垣市赤坂町の赤坂本陣公園で行われました。大垣市長、大野町長はじめ50名程の人が参加していました。
郁太郎は幕末の志士であり、長州藩士として活躍をし、28歳で病没。一緒に活動した高杉晋作ほど有名ではありませんが、明治の元勲井上馨の命を救うなど大きな働きをしています。こうした無名の人達がたくさんいて、はじめて明治維新がなったのだと思わざるを得ない人物です。公園にある碑文を次に転載します。

幕末憂国の青年志士 所郁太郎
天保9年(1838)中山道赤坂宿醸造家矢橋亦一の四男として誕生。11歳のとき西方村(大野町)医師所伊織の養子となり厳しく育てられた郁太郎は、初め横山三川に漢学を習い、次に美濃加納藩医青木養軒に医学、三宅樅台に文学・歴史を学び、18歳で京都に出て安藤桂州塾で蘭学を、また21歳、越前大野藩校洋学館で洋学を修め塾頭伊藤慎蔵にすすめられ、万延元年23歳で大阪の適塾(緒方洪庵)に入門、福沢諭吉大村益次郎ら多くの交友を得て、国事を論じた。
25歳 養家に帰り結婚 再び上洛し町医を開業。たまたま旧友長野昌英に会い桂小五郎(後の木戸孝允)の推挙をうけ長州藩の医院総督となり、高杉晋作ら志士たちと親交を深め、国政に参画。
文久3年の政変に三条実美ら七卿落ちに従い長州に入り、寺社組支配、米銀方行、遊撃隊参謀など要職を歴任、「辛苦、忠を思い身を思わず。医は人の病を医し、大医は国の病を治す」と幕末騒乱の中を東奔西走し、国のために尽した。
慶応元年(1865)3月12日、吉敷の軍営で病死。享年28歳。墓は山口市東三舞と赤坂妙法寺にある。
明治2年京都霊山に祭られ、同31年従四位を追贈し生前の功労を称えられた。
尚、元治元年俗論党に襲われ瀕死の重傷をうけた井上聞多(後の明治の元勲井上馨)を手術し畳針で縫いその一命を救った話は小・中学校の教科書や伝記・小説にも紹介されている。 1995年(平成7年)3月12日 百三十年記念に建立する 所郁太郎奉賛会

2013年3月26日 (火)

汗青会公開セミナー報告 その2

後半は「歴史教師としての稲川誠一先生」と題して廣瀬さんに1時間話をしてもらいました。廣瀬さんは歴史家らしく高校時代の日記、教科書、ノートから稲川先生の授業の進め方や先生とのやりとり、先生の主催された「歴史同好会」の中身などを具体的に紹介してもらえました。例えば「歴史同好会」では案内状、各回の期日、場所、内容などの記録を用意されたのです。単なる記憶とか印象でなく、事実を示されることは、私共のように同じ高校で生活を送り、先生の授業を実際に受け者には50年前のことがありありと想い出されるのです。廣瀬氏が語った先生の授業ぶり、先生の求められた生き方をまとめると、次のようでした。
「あまり学術的なことには言及されず、最も感動的な場面を、生き生きと説くことに主眼をおかれた」「歴史を形成するのに、人物やその精神の作用を夙に重視されていた」そして、
「今この時に全力を傾ける人生観を尊ばれ」「日本人の主体性ということを大事にされ」
「何より人格高潔にして、思想信条の健全な日本人となることを期待された」
詳細は紹介できませんが、お話は先生の真面目を十分に表した評伝になっていたと思います。
会の最後は参加者一人一人の講話への感想や、現在考えていることなどを出し合い、12時を越えたところで閉会としました。
次年度は「教育運動家としての稲川誠一先生」をテーマにして行う予定です。平成26年は3月21日が春分の日であり、今のところその日を第一候補としています。また来年には案内を出しますので、皆さんもおいでください。(H)

2013年3月23日 (土)

第3回汗青会公開セミナーの報告 その1

3月20日(水)に第3回汗青会公開セミナーを開きました。快晴で暑くも寒くもない絶好の日よりでした。JR大垣駅から空中廊下でつながる「アクアウオーク」にある「アクアホール」を借りて行いました。これは一昨年の第1回と同じです。(第2回はアクアウオークの道を挟んで北側の「北地区センター」)
参加者は19名。遠くは愛知県から、また県内でも関市からも来ていただきました。主催者として大変うれしく感謝申し上げます。
会は始めに稲川先生の遺影に向かって拝礼をしてから進めました。
私の方から会の趣旨等を少し説明し、前半を所さんの挨拶を兼ねたお話をしてもらいました。後半は愛知県の廣瀬重見氏の「歴史教師としての稲川誠一先生」を語っていただきました。いずれも貴重なお話であり、ドラマもありましたので報告すると長くなりますが、前者は汗青会ホームページの「かんせい汗青PLAZA」の「日本学広場」用にほぼ同じ内容の小論を所さんに書いてもらいましたので、24日には掲載する予定です。後半は私の方で概要を書いて後日お知らせします。本日はこれくらいで失礼します。   (H)

2013年3月17日 (日)

稲川誠一先生の写真

稲川先生の全体像をとのご希望がありましたが、残念ながら適当なものがありません。私は20年間ご指導をいただいたのですが、一緒に並んで写真を撮ってもらったとか、先生を正面から撮ったことがないのです。そんなに早く亡くなられるとは思っていなかったのでしょう、こまめに写真を撮る方の私としてはうっかりしていました。
HPに使った肖像写真はご葬儀の写真に使われた写真で、私の友人が撮ったものだと思います。先生の顔が少し微笑んでみえるかと思います。それには訳があって、その右側に先生の恩師がみえるのです。つまり恩師とのツーショットで、少し恐縮されながら嬉しい気持ちが出ている絶妙の写真なのです。またの機会に先生の恩師については写真を交えながらお伝えしたいと思います。(H)

その他のカテゴリー